あいつが教えてくれたもの

去年のバレンタイン。
わたしには何の関係もない日だった。
全体が浮き足立っているようなこの街に、あの人はみんなと一緒に来ていたけれど。
今更、何の期待もしていなかった。
だけど。
ふと見上げた彼はある一点だけを見つめていた。
ひどく嬉しそうに。
その特別な笑顔が向けられる人は1人しかいない…。
『わかっていたでしょう?』自分に向けられた言葉に『そうね』と肯定しながらも、足は勝手に方向を変えて走り出していた。
どこをどう走っていたのか、自分でもわからなかった。
どうして走っているのか、どこに行きたいのか。
わたしは…。
「ばぁか」
その声と共にわたしの腕を掴む手があった。
振りほどこうとしたけれど、その手はわたしの腕にしっかりと食い込んでいた。
こんなに、力が強かったかしら。
わたしはその手に強引に立ち止まらせられた。
その手がなくても、きっとわたしはそれ以上走る事はできなかっただろうけど。
人を罵倒するためだけにあると思っていた言葉。
わたしは今まで一度も言われた事のないもの。
その冷たいだけのセリフが、とても温かく思えたから。
わたしはその言葉をそんな風に響かせる事はできないのに…。
それを言った相手が誰かなんてわかりきっていたけれど、いつもと異なる声のトーンにわたしは思わず振りかえっていた。
そこにいたのはやっぱり、普段は口が悪いだけの奴だった。
でも、それ以外には何も言わず、そいつは黙ってわたしの隣にいた。 
わたしの腕を掴んだまま。
普段ならやんわりを手を離させるのに、それをする事もできなかった。
ふいに訪れた温かいものがわたしののどを塞いだせいだったのかもしれない。
それでも、もれ出そうになる嗚咽を押さえ込む事くらいは、簡単な事だった。
「見てたの?」
何の感情も込めなかったわたしの言葉にそいつはただ頷いた。
何か言われると思って身構えていたわたしは少し拍子抜けした。
けど、こいつはいつもこんな風だ。
何の関心もなさそうにわたしから目を逸らしている。
だから、わたしもそれ以上は何も言わなかった。
沈黙がわたしたちの上にのしかかる前にわたしはこいつから離れようと思った。
だけど、いまだに手を離そうとしない。
「トラップ」
声をかけて、手をほどこうとしたけれど、離してくれない。
「トラップ?」
覗き込もうとするわたしの視線を避けて、話しを始めた。
わたしが想像もしてなかった話を。
「…ってわけだ」
長い話の途中で何度も逃げ出したくなった。
でも、トラップの片手は、わたしの抵抗ではびくともしなかった。
記憶がないような頃から一緒にいたせいで今まで意識した事がなかったのだけれど、トラップも男なんだと、はじめて思った。
「トラップ…」
戸惑いを隠しきれなかったのかもしれない。
わたしの言葉にトラップは首を振った。
「返事なんかわかってるって。言わなくていい。ただ、こういう奴もいるんだって覚えててくれりゃいいからよ」
それだけ言って、わたしの腕を離したかと思うと、風のように走り去った。
わたしの思考は普段の冷静さを失っていたのかもしれない。
今かけっこしたら勝てそうにないわ。
トラップが消えた街角を見つめて、考えたのはそんな事だった。
わたしが見てないうちにずいぶんと成長してたのね。
前はわたしに敵うところなんて1つもなかったのに。
微笑みが、もれた。

そして、今年のバレンタイン。
あれから1年。
もちろんすぐに彼の事を忘れたわけではなかったし、すぐにあいつに目がいったわけでもなかった。
でも、あいつも結構頼りになるんだって事はこの1年でわかったし、わたしが思ってたよりもずっと奥が深いのかもしれないとも思った。
でも、トラップがそんなにかっこいいなんてなんだか悔しいじゃない?
それをわたしがわかってなかったなんてね。
だから、もっと近くにいてもっとあいつを知ろうと思ったのよ。
勘違いしないでね、ただそれだけなんだから。
あいつにわたしを認めさせるため。
とりあえず、このチョコレートを「おいしい」って言わせるために待ってるのよ。
そう、ただそれだけ。
約束の30分も前から待ち合わせ場所に来て、2分おきに時計台を見上げてるのも、深い意味なんてないの。
「トラップ!!」
駆けてくるあいつをすぐに見つけられたのはあの目立つ赤毛のせい。
周りを振り向かせるほどの大声であいつに手を振るなんて、わたしらしくないかしら?

                               END


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