解放の時


「うるせぇ!」
旅館中に響き渡るような大声が、パステルのいる部屋にも聞こえてきた。
慌てて立ち上がり、声が聞こえてきたらしい隣の部屋へと向かった。
「入るよ。いい?」
軽くノックをしながら、返事も待たずにパステルはクレイたちが使っている男部屋の戸を開けた。
真冬の夕方。
バイトから先ほど帰ってきたばかりのクレイとトラップと、今日は一日部屋にこもって薬草の整理をしていたキットンがそこにはいた。
怒鳴った張本人だと思われるトラップはベッドに座ってうつむいている。
クレイは部屋の真ん中に立っていた。
キットンは戸の近くにいて、入ってきたパステルを見上げている。
「どうしたの?」
小声でキットンに尋ねるパステル。
「いえ…」
困ったようなキットンの声。
「なんでもないよ」
クレイがパステルの方を見た。
「けっ、かっこつけやがって」
トラップが憎々しげに吐き捨てる。
「ちょっと! なんてこと言うのよ!」
トラップの様子に、パステルが声を荒げる。
「お前は黙ってろ!」
トラップの一喝がパステルに飛んでいく。
「パステルに当たるな!」
間髪をいれずにクレイの声が飛ぶ。
トラップがクレイを鋭く見据えた。
「お前はいつもお優しいよなぁ。誰にでも。それが周囲をどう思わせてるかなんてこと、考えてもいねぇんだろうけどよ。ご立派だよな、お前は」
いつもの憎まれ口とは明らかに違う声質。
クレイをしっかりとにらみ付けている。
「どうしたっていうんだ…」
クレイは一歩、トラップに近づいた。
「来るな。近づくなよ。鈍けりゃそれで許されると思うなよ。出てけ!!」
次の足を踏み出そうとしていたクレイの足が戻される。
沈黙が部屋をおおった。
「クレイ、パステル、出ましょう」
キットンの静かな声に、トラップはクレイから顔をそむけた。
沈み行く太陽に背を向けて、キットンとパステルは部屋を出た。
残ったクレイは何かを言いかけたが、明らかな拒絶を示すトラップにかける言葉はなく、黙って出て行った。

自然にパステルたちの女部屋へと三人が集まった。
ルーミィとシロはまだノルと外で遊んでいるようだ。
「なにがあったの?」
部屋の明かりをつけて、はじめに口を開いたのはパステルだ。
カーテンを閉めてから、クレイの隣の椅子に座った。
キットンはクレイとパステルの正面に座っている。
「はい、えっと…」
パステルの問いに答えようとしたキットンだったが、気遣わしげにクレイを見やった。
クレイは一つうなずくことで、話してもかまわないことを示した。
「えっとですね、わたしが部屋でキノコのより分けをしていたらクレイが帰ってきましてね。間を置かずにトラップも帰ってきたんですが、帰ってきたときから機嫌が悪かったみたいです」
「それで?」
パステルが先をせかした。
「はい。わたしやクレイが『おかえり』と声をかけたのにも何も返さないでベッドに座り込みまして。いきなり『なんでそんなに鈍いんだよ』って言い出しました。クレイとわたしは意味がわからなくて顔を見合わせてたんですが、そしたら今度は『お前に決まってんだろ、クレイ』って言いまして」
キットンは自分の手元を見ながら話し続ける。
「『どうしたんだ、トラップ。バイト先で何かあったのか?』とクレイが聞いたんですけどね。そしたら『うるせぇ!』て怒鳴りまして。それから先は知ってますよね」
「うん」
パステルは答えてクレイを見た。
顔を上げたキットンもつられるようにクレイに視線を向けた。
クレイはキットンとパステルの話を聞いてないかの様子で隣の男部屋へと続く壁を見ていた。
「クレイ?」
遠慮がちにパステルが声をかけた。
「え? なに?」
クレイがパステルを見る。
いつも快活なクレイの目はそこにはなかった。
暗くよどんだ瞳でパステルを見ている。
「トラップが、なんであんなこと言ったのか、わかる?」
クレイの変貌にショックを受けながらもパステルは言葉をつむいだ。
「わからないな」
「…そう」
続く言葉があるようなそぶりを見せながらも、パステルはそれ以上はなにも言わなかった。
場がしんと静まる。
誰もが、何か話さなければいけないと思いながらも、何も口にできない、そんな状況になっていた。
ガチャ。
唐突に立て付けの悪い戸が開いた。
ほんの少しの隙間だけを覗かせて、それ以上開く様子はなかった。
だれが開けたのかは三人には見えない。
いぶかしく思った三人が声をかけようとした時に、相手が声を発した。
「おれ、ちょっと出てくるわ。三、四日もどらねぇ」
「トラップ?」
「どこに行くんですか?」
パステルとキットンが慌てて立ち上がったが、パステルが戸を開けた時には、廊下にはもう誰もいなかった。
「トラップ…」
どこかの窓が開いてでもいるのか、室内よりも冷たい空気が肌にまとわりつく。
パステルとキットンは身震いしながらも、トラップが消えたであろう階段を見つめながら、不安そうな面持ちをしていた。
クレイは一人、座ったままだった。

気まずい夕食を食べ終わり、そろって旅館へと足を向けた。
パステルがキットンを小声で呼ぶ。
「どうしました?」
パステルは自分より少し背の低いキットンに耳打ちした。
「後でわたしの部屋に来てくれない? クレイには内緒で。ノルも一緒に話そう」
「わかりました」
次にパステルは、一番後ろを歩くノルのところに行った。
キットンへと同じように、今度はノルにかがんでもらって耳打ちをする。
「後でキットンと馬小屋の方に行っていい? ちょっと話があるんだ」
ノルは黙ってうなずいた。
一言、二言の密談に、パステルにくっついていたルーミィが不思議そうにパステルを見上げた。
「ルーミィ、今日はたくさん遊んだから早く寝ようね」
「うん。そうすうお」
「わんデシ!」
「しおちゃんもねるんかぁ? いっしょにねうお!」
「わんデシ!」
もう真っ暗になったとはいえ、時間的にはまだ早く、人もまばらながらに歩いている。
話せないシロは不便そうだが、そんな1人と1匹を見守るパステルは微笑ましさを感じていた。
トラップがいないことをはじめは寂しがっていたルーミィとシロも、「何日かしたら帰ってくる」というパステルの言葉に安心したようだ。
今ではいつもと変わらない様子ではしゃいでいる。
旅館につくと、ノルは馬小屋に、他のみんなはそれぞれの部屋へと戻っていった。

パステルがルーミィたちを寝かしつけたころにキットンがやってきた。
二人とも厚着をして、ノルの待つ小屋へと向かった。
ルーミィは起きないだろうとは思っていても気にかかる。
パステルは、あまり長い話はできなさそうだと思いながら外に出た。
冷たい風が一筋、髪をなびかせた。
見上げた空に、星はなかった。
馬小屋に入ると、ノルが座りやすいように藁を移動させていた。
いくら安普請とはいえ、みすず旅館と板一枚で風通しの良い馬小屋では比べ物にならない。
藁の上に座り込んだパステルは早速、話をはじめた。
まずは、ノルにトラップが荒れていたことを伝える。
理由も言わずに飛び出していったことも。
「そうか」
ノルはぽつりとそう言っただけだった。
「で、パステル。話っていうのは何なんです?」
パステルと同じように自分の腕を手でさすって暖めながら、キットンが尋ねた。
「うん。トラップがあんな風に言った原因なんだけどね、思い当たることがあって」
「なんですか?」
すかさず聞き返すキットン。
「ほら、このあいだまで冒険してたじゃない? で、エベリンにも立ち寄ってマリーナに会ったでしょう。そのせいじゃないかって思うんだ」
指先が出ている手袋では寒さをしのげないのか、パステルはわらで温まった足に手で触れた。
「ははぁ」
キットンはパステルの言わんとすることを理解したようだ。
「マリーナはクレイが好きなんでしたっけね。で、トラップはマリーナが好きだと」
「キットン、知ってるの!?」
パステルが大声をあげる。
「そりゃ知ってますよ。見てればわかりますからね。パステルだって見ててわかったんでしょう?」
「そうだけど」
「パステルみたいな鈍感な人でも気づくんですから、わたしが気づかないはずがないじゃないですか。ぎゃっはっは…うぐぅ」
キットンの馬鹿でかい笑い声はパステルの手で封じられた。
「ちょっと、キットン! 夜なんだから静かにしてよね!」
キットンはそう言われて首を激しく縦に振った。
それを見たパステルはキットンの口から手を離して、また座りなおした。
「さっきはパステルだって大声をあげてたじゃないですか。何も口をふさがなくても黙りますよ」
ぶつぶつと文句を言うキットンは放っておいて、パステルはノルに声をかけた。
「ノルは知ってた?」
「あぁ」
「そっか、結構みんな知ってたんだ。あ、話がずれてるね。うん、で、トラップはね、何回会ってもマリーナに何も言わないクレイに怒ってるんじゃないかって思って」
パステルは何度も座りなおしながら言った。
素足にあたる藁が妙に痛い。
「そんなところでしょうね。クレイが悪いわけではないと思いますが、トラップにしてみれば腹が立つんでしょう。まぁ、若さですね」
しみじみと言うキットン。
ノルもうんうんとうなずいている。
「トラップはどうなってほしいんだろうね」
パステルはうつむいていた。
「トラップにしてみれば、今のままではマリーナが諦めることもどうすることもできませんからね。なんらかのアクションを起こしてほしいんでしょう。何か言いさえすれば納得すると思いますよ」
「パステルも、後悔しないようにな」
ノルの言葉に、パステルは顔を上げた。
「…鈍感って悪いことだよね」
小さな声でパステルはつぶやいた。
「自分でなんとかできることじゃない」
「気づくように努力すれば良いんですよ。人の気持ちも自分の気持ちも中々わかることではありませんしね。わかる人からすればイライラするかもしれませんけど、世の中の人の全員が全員鋭かったら疲れますよ。あなたやクレイみたいな人も必要なんです」
ノルもキットンも優しくパステルを見ていた。
「ありがとう、キットン。ノル。クレイには、何も言わない方がいいかな」
「そうですね」
「そうだな」
ノルもキットンも神妙に返事をした。
「どうなるんだろうね」
パステルの不安そうな声でその場は解散となった。


「いらっしゃいませ!…トラップ」
営業用の笑顔が驚きに変わる。
「どうしたの? ついこないだ帰ったばっかりなのに。忘れ物でもあったの?」
驚きを笑顔に変えてマリーナはトラップに近づいた。
トラップは、シルバーリーブを出てからすぐに乗り合い馬車に乗ってエベリンへとやってきた。
まっすぐにマリーナの店に来たようだ。
「あぁ、忘れもんがあってな。この店って繁盛してんのか?」
抑揚のない低い声で話すトラップに、マリーナは距離を置いたままで止まった。
「まぁまぁね」
マリーナの笑顔が消えた。
「そっか。んなら奥で終わるまで待たせてもらうわ」
マリーナの横をすり抜けて奥にあるマリーナの自室へと足を向ける。
「待ちなさいよ、トラップ。忘れ物なんて嘘でしょう? 話なら今、聞くわ」
トラップがマリーナの横を通り抜ける瞬間に、マリーナは声を出した。
「忙しいんだろ」
「今はお客さんはいないわ」
服の積まれた空間で、二人は互いに顔をあわせようとすらしなかった。
「途中で中断されたくねぇんだよ。別にいいだろ?」
「中断されないかもしれないわ」
「まぁまぁ繁盛してんだろ」
「店じまいした後でも誰か来るかもしれないわ」
「んな奴がいるのか?」
「いるかもしれないわ」
「居留守でも使えばいいだろ。出る義理はない」
「勝手に決めないで」
「おれの方が先約だ。もういいだろ。待たせてもらう」
トラップは言い残して奥へと消えていった。
「なんなのよ、あいつ」
トラップの、普段と違う様子にマリーナは困惑した。
言い負かされるのは初めてのことだ。
あんな強引なトラップを見るのも。
(怖い…)
マリーナはトラップに抱く初めての感情に混乱していた。

「やっと終わったのかよ」
来た時に着ていた緑色のジャケットと帽子を脱いだ格好でトラップは、マリーナの部屋の戸口から店の中央付近にいるマリーナに声をかけた。
「えぇ」
服の整頓をしていたマリーナは手を止めた。
閉店時間は過ぎていたが、しなくてもいいことをしながら時間をつぶしていた。
外はもう暗い。
エベリンのような都市では外灯がいくつも灯っているが、それも心もとない。
明かりの届かない場所には深い闇が存在する。
明かりのついた店内は明るかったが、マリーナの心の中は暗雲がおおっていた。
「こっちに来いよ。お前の部屋で話そうぜ」
「別にここでもいいじゃない」
「そこでもいいなら、こっちでもいいだろ」
「そっちでもいいならこっちでもいいじゃない」
無意味な言葉の応酬をしながら、マリーナは売り物の服を胸に抱いていた。
「なによ、何か用なの?」
「まぁな」
「何の用なのよ」
「そう急ぐなよ。せっかくだし、お前の手料理でも食わせてくんない?」
「何なのよ。パステルたちは来てないの? どうしたっていうのよ」
「パステルたちなんかどうだっていいだろ。ここにいるのはおれ一人だ」
トラップが一歩、近づいた。
マリーナが一歩、下がる。
「なんだよ、どうした? 逃げることはないだろ?」
トラップは何の表情も浮かべていなかった。
「こっちに来なくったって話せるでしょう?」
「別にいいじゃねぇか。おれたちは兄妹みたいなもんだろ? 怖いのかよ」
「あんたのこと、兄さんだなんて思ったことはないわ」
「そうだろうな、おれもお前が妹だなんて思ってねぇよ」
服を胸に抱いたまま、マリーナは体を硬直させる。
「だからなんなのよ」
適温になっているはずの室内で、マリーナの背中を冷や汗が伝う。
「兄貴だって思ってなくても、眼中にないんだろうな」
「だって、そんなの、わたしには」
そこまで言って口をつぐむマリーナ。
「『わたしには』なんだよ? 言わなきゃおれはわかんねぇとでも思ってるわけ? 愛しのクレイがいるからってか?」
かっとマリーナの顔が赤く染まる。
「知ってるなら、聞くことないでしょう? わかってるなら出てってよ」
マリーナがキッとトラップをにらんだ。
「あんな鈍感馬鹿のどこがいいんだよ。お前のことなんか何も気づいてねぇじゃねぇか。いっつもぼけっと幸せそうな顔しやがってよ」
いくらトラップとクレイが喧嘩をしても、こんな風に罵倒することなんて今までになかった。
マリーナは驚きと怒りに任せてトラップに食って掛かった。
「なんてこと言うのよ、あんた! 親友でしょう? クレイは表に出さないだけよ。あんたみたいに機嫌が悪いからって八つ当たりしたりしないのよ。あんただって知ってるじゃない」
「おれから見たらお前を泣かせることしかできねぇふがいない男でしかねぇよ」
鋭く光るトラップの眼光。
(怖い)
マリーナはトラップから目が離せなくなっていた。
目を離したら何が起こるかわからない、そんな恐怖に包まれていた。
「だいたい、お前ってクレイのどこがいいわけ?」
「クレイは優しいわ」
「優しい男なんざそこいらにいくらでも転がってるけどな。なんでクレイがいいわけ?」
「クレイはわたしを当たり前のように受け入れてくれたわ。あんたはわたしなんか認めないって言ったのに、クレイはすぐに受け入れてくれた。わたしに笑いかけてくれたのよ」
どうしてトラップにこんなことを言わないといけないのかと思いながらも、マリーナは素直に話していた。
マリーナにそうさせるだけの真剣味をトラップが備えていたからだ。
「なんだよ、それ。それが恋かよ。笑いかけてくれたから好きんなるなんつーのは早々に卒業するような初恋じゃねぇか。だったらおれの親友がクレイじゃなくても素直な奴だったらそいつでも良いんじゃねぇの? お前に笑いかける奴だったら誰でも良かったわけだ」
トラップはマリーナの想いを鼻で笑った。
「クレイだったのよ。違う人だったら、なんて意味のない仮定だわ」
「小さい頃の刷り込みに何いつまでもこだわってんだよ。だいたい、お前からクレイに何か言おうとしたことがあるのかよ」
「そんなに簡単に打ち明けられるわけがないでしょう!? そんなに簡単なことならだれも苦労しないわよ! あんたに何がわかるのよ!」
持っていた服を投げ捨ててマリーナはわめいた。
「確かにな、それまでの関係が壊れるとか何とかで告白できない奴なんざいくらでもいるだろうよ。でもな、お前は違うんじゃねぇの?」
「何が違うのよ」
肩で息をしながら、さきほどまでの勢いはなくなった声音で聞き返した。
「お前のは怖がってってんじゃねぇんだよ。たんにクレイに恋してるって錯覚してるだけだ。そうじゃなけりゃ、十年以上も何の行動も起こさないでいられるわけがねぇんだよ。恋ってのはな、お前みたいに想ってるだけで満足できるようなもんじゃねぇんだ」
言いながら、トラップはまたマリーナに近づいた。
今度はマリーナは引けなかった。
「満足なんてしてないわ」
「じゃあ、なんで言わねぇんだよ。お前、クレイ以外の男のことをちゃんと見たことあるわけ? その上でクレイがいいのかよ。はじめっからクレイしか見てねぇだけだろ。広い視野が持てねぇのはなんでだよ」
マリーナの目の前にトラップがいた。
マリーナは口を閉ざした。
ただ、トラップをにらみつけていた。
「お前、クレイが欲しいとか思ったことがあんのか? ガキがおもちゃを欲しがるのとはわけが違うぞ。ガキの初恋ともな。お前の気持ちってのは、そんなもんじゃねぇの?」
マリーナはトラップの胸を両手で押し返した。
「違うわよ! 出て行ってよ! あんたなんか大っ嫌い!」
いつの間にか、マリーナの声が涙声になっていた。
「わかった。出てってやるよ」
トラップは一旦、マリーナの部屋に取って返して荷物を取ってきてから、マリーナの横を通り抜けて出て行った。
「おれはお前が欲しいけどな」
そんな一言をマリーナの耳元に残して。

トラップが出て行ってから、マリーナは投げ捨てた服を拾い上げ、元の場所に戻した。
店の明かりを消して、自室に入る。
食事もせずに、ベッドに横たわる。
「トラップ…」
マリーナの頭の中では、トラップに言われた言葉を繰り返しながら考えていた。
(わたしは幼い頃のはじめての喜びを大切にしすぎただけなのかしら)
「あんたなんか…」
(母さんたちも笑いかけてくれた。でも、あの頃のわたしは大人は信用できなかった。いつか捨てられるんじゃないかって思ってたから)
「何がわかるのよ」
(あいつは初めて会った時から憎まれ口しか叩かなかった。だから、はじめて笑いかけてくれたのはクレイだった)
「トラップなんか…」
(それから、ずっとクレイが好きだった。好きだと思ってた。でも、クレイが欲しいなんて思ったことはなかった)
「あんたなんか…」
(クレイにはサラがいるから、叶う恋じゃないと思ってた。…もしかして、叶わない恋の相手だからクレイを好きになってたの?)
「あんたなんか…」
(叶わない恋をしていれば、だれもわたしに入り込めない。拒絶することができる。わたしは誰かに心を許すことが怖かった。だから、クレイを好きだと思い込んでたのかしら)
「トラップ…」
(わたしには、好きな人なんていないのかもしれない。本当に好きな人なら、振り向いて欲しいって思うものかもしれない。婚約者がいたって。でも、わたしはそんな思いをしたことは、ないわ)
「トラップ。あんたは、そんな思いをしてるの?」

翌朝、あまり寝れなかった自分の体を無理に起こして、マリーナは店の準備をはじめた。
店の掃除をしている時に、店の扉がノックされた。
まだ開店時間にはなっていない。
扉の向こうにいるのがトラップだったらどうしよう。
一瞬、マリーナはそんな思いにとらわれた。
(まだ、会いたくない。会えるような心境じゃない)
自室に取って返そうか、黙っていようかと思った時に、扉は開いた。
「なんだ、いるんじゃないか。マリーナ」
そこには、いつもの燕尾服姿のアンドラスが立っていた。
「アンドラスだったの」
マリーナは全身で息をつきながら、心底ほっとしたような顔をした。
「どうしたんだ、そんな情けない顔して」
アンドラスは豪快に笑いながら、マリーナの肩を優しく叩いた。
「いいえ、なんでもないの。アンドラスこそどうしたの? こんな早くに」
「うん? いや、昨日の夜にトラップが訪ねてきてな。朝一番の乗合馬車で帰ったんだが、マリーナに渡してほしいって頼まれたものがあってな」
アンドラスは懐をさぐった。
「昨日はアンドラスのところに泊まったのね、トラップ」
「あぁ、いきなり来た時は驚いたがね。あった、あった、これだ」
アンドラスは取り出した手紙をマリーナに差し出した。
「トラップの奴、昨日は寝てないみたいだったな。失敗した手紙の紙くずが部屋に散乱してたよ」
「そう」
マリーナはアンドラスから手紙を受け取り、それを見つめていた。
「何があったかは知らんが、いつものお前たちにも戻れるといいな。ドーマにいた頃は、お前たちの笑い声が絶えなかったもんだ」
「そうだったわね。…大丈夫よ、きっと」
顔を上げて、マリーナは笑った。
「いい笑顔だ。じゃあな。今日も頑張れよ」
「えぇ、ありがとう。アンドラスもね」
アンドラスは、軽く帽子を取ってお辞儀をすると階段へと消えていった。

「昨日はいきなり押しかけて悪かったな。
言ったことは間違ってるとは思ってねぇけど、
言い方は悪かったかもしんねぇ。
お前を見てるとイライラしてな。
お前が本当にクレイが好きなら
応援もしてやれたんだけどな。
おれがこんな風になる前に。
ゆっくり考えてみろよ。
お前の結論が出たら、聞かせてくれよな。
どんなんでもいいからさ。
昨日、言い忘れたことがあったな。
おれはお前が好きなんだ。 T」

(こんな短い手紙に、一晩もかけたの?)
「馬鹿ね。あんたってほんと、馬鹿よね」
自分の部屋に行ってから取り出した手紙。
「手紙でも、素直になれないのね、あんたって」
(どんな結論でもいいなんて、そんなわけないんでしょう? あんたは、愛されたいはずだわ。わたしとは違って)
手紙を見ながら、思い浮かぶのはトラップの顔だった。
笑った顔、怒った顔、ふてくされた顔、寂しそうな顔…。
あいつがへらへらしながらイライラしてたのってわたしのせいだったのかしら。
他にも、今になって思い浮かぶことがいくつも出てくる。
『好きなんだ』
その部分にそっと触れる。
(あんたは、わたしよりもずっと辛かったんでしょうね)
意識的に頭の中を白くするマリーナ。
「お店の準備しないとね」
口に出して立ち上がった。
トラップからの手紙は封筒に戻されて、引き出しにしまわれる。
(わたしは、すぐに切り替えができるほど器用じゃないわ。クレイのことはきっと本当の意味では好きじゃないと思うけど、誰も住まなくなったわたしの心に、あんたが入れるかどうかはあんた次第よ。頑張ってね)
トラップに出す返事を頭の中で考えながらも、店の掃除を再開した。

「クレイ」
エベリンを出た翌日の昼過ぎ。
クレイのバイト先にやってきたのはトラップだった。
「トラップ。どこに行ってたんだよ、お前」
武器屋で店番をしていたクレイは、店に客がいないことを改めて確かめてから、身を乗り出した。
「ちょっとな。ま、いいじゃねぇか。こないだは悪かったな。頭に血が上ってたからよ」
「いや…。おれが鈍いせいでお前にはずっと迷惑をかけてるよな。人のことを考えてないわけじゃないんだ。けど…」
珍しく素直なトラップに、クレイも心情を素直に語った。
眉間によったしわに、トラップがいなくなってからどれだけ深く言われたことについて考えていたのかが伺える。
「わぁってるよ。お前が人のこと考えてねぇわけねぇだろ。お前はそのままでいいんだろうな。それがおめぇらしいぜ」
出て行ったときとは比べ物にならないような優しい声と言葉。
表情もずいぶんと柔らかくなっていた。
クレイには、トラップがどこで何をしてきたのかは見当もつかなかったが、先日に見た刺々しい雰囲気が失せていたことからも、すっきりできたんであろうことはわかったようだ。
「トラップ…」
「気色悪ぃ声なんか出すなよ。ま、しっかり働けや。…でもな、自分の気持ちは、わかってろよ」
「あぁ、言われなくても大丈夫さ。おれにも、大事な子はいるからな」
そこには暗くよどんでいた瞳はなかった。
つい先ほどまであった陰りは、トラップの来店と同時に跡形もなく消えていた。
「だろうな。じゃあな」
「あぁ。あ、そうだ。郵便のおじさんが怒ってたぞ。お前、バイト先に休むって言ってなかっただろ」
「やべっ!」
トラップは帽子をおさえて、慌てて店を飛び出した。
「しっかり働いて来いよな」
クレイの顔もまた、晴れ晴れとしていた。


マリーナの返事を受け取ったトラップは、機会があるごとにマリーナの店に立ち寄るようになった。
たわいのないおしゃべり。
店の買出しや手伝い。
時には詐欺師の仕事にも加わりながら、少しずつその距離を縮めていった。
ゆっくりと歩き出したマリーナは、愛される幸福と、本当の恋を知ることができたようだ。
時に笑いながら、時に喧嘩をしながら、それでも同じ道を歩いていくことを決めるのも、そう先の話ではないだろう。


END



〜〜〜あとがき〜〜〜
やっとやっと書きあがりました。
「トラマリ促進企画!!」を思いついて、一番初めに書いたのがこの話だったわけなんですけど。
これがまた時間がかかりました。
実際は3日程度ですが、書いたものを保存する時に「いいえ」を選んでみたり、フリーズしたり。
はじめのトラップとクレイのところはいらなかったなぁと思ったりとか(最後、ちゃんと書けたんであってよかったですが)。
あ、マリーナをシルバーリーブに行かせようかとも思ったんですよ。
クレイに自分の過去の気持ちを言いに。その部分も途中まで書いたんですが、わざわざ言いに行くのも変だよな、と思って書き直したりとか。
久々に紆余曲折視ながらこじつけました。
内容の方はわたしが一番書きたかった部分、ですね。
なんだか「彼女への想い」のクレパス部分の感じだとか、いつかのトラマリクリスマスだとか、雰囲気が似てるような作品もあったりするんですが、トラップがマリーナをここまで追い詰めたのは初めかと思います。
わたしとしてはマリーナにこれくらい言ってほしかったりします、トラップに。
ちょっとひどいだろう、と思ったりもしますが、マリーナにはこれくらい言ってくれる人が必要かな、とか思いますし。
今回、トラップが言ったことが当たってるかどうかはさておいて(この話の中では当たってることになってますが)。
とはいえ、ここまで来るとほんとに恋愛のみ、なので、まぁパステルの知らない間にって言う感じで進んでくれると(おい)。
不満なところはトラマリだとどうしてもマリーナの店にトラップが来るっていうシュチュエーションが多いことですね。これで何回目だろう。
遠距離でしかも約束もせずに来るのでまぁお店に行くしかしょうがないんですが。
後は妙にトラップがアダルトチックになるところ。今回はトラップの精神面も追い詰められていましたが、別にマリーナをどうこうする気は全くなかったです。
マリーナも見たことがなかったトラップの「男性」の部分を見せられて怖がってただけですし。「欲しい」っていうのも「そばにいて欲しい」とかそんな意味合いが強いです。
二人の子供っぽい恋愛も書いてみたいですね。詩作では意地の張り合いみたいなのも書いてるんであるんですが。
「あとがき」が長くなりすぎましたが、今回の作品、気に入ってもらえたら幸いです。
もしよければHPの方にでも飾ってやってください。


特集の部屋へ