今ある全てに……
暖かな風に桜の花びらが空を舞い、ようやく長い眠りから目を覚ました動物達が動き出す。
目覚めの季節、春。
虫達の中にも寝起きの悪いやつっていんのかな……。
校舎の屋上で煙草を吸いながら、俺はそんなことを考えていた。
ここはエベリンの外れにある私立高校。高校生活なんて早いもので、もうすでにここに通って三年目を迎えていた。
「あ〜もう!やっと見つけたわ。校舎中探しちゃったじゃない!」
突然声をかけられ、薄く目を開ける。
「あぁ?んだ、マリーナか」
「なんだじゃないでしょ!?二者面談、次トラップの番なの!」
二者面談?あぁ、そういやそんなもんがあるとかないとか。いや、あるのか。
とにかくそんなだりぃもんに出なくちゃいけないらしい。
「だぁっ!ったく、だりぃな。代わりにマリーナ出てくんない?」
「あのねぇ、そんなことできるわけないでしょ?そりゃできることなら私が代わってあげたいわよ。
そっちの方がよっぽどトラップのためになるもの」
こ、こいつは……。でも俺自身そう思うから、反論もできねぇ。
俺はベーッと舌を出して立ち上がった。
「ちっ!ま、しゃあねぇか。ところでマリーナ……」
諦めて声をかけるが、マリーナはボーっと下を見つめている。
あ?何かあんのか?
「おい、マリーナ!」
「……え?な、なになに?」
今度は少し強めに呼んでみた。すると、ふと我に帰ったのか慌てて返事をしてくる。
「んだよ、下になんかあんのかよ」
「な、何でもないよ。ただボーっとしてただけ!それで?何言おうとしてたの?」
俺がマリーナの視線を追おうとすると、こいつはそれをさえぎった。
何か怪しいな。大体意味もなくこいつがボーっとするか?
そう考えてはみたが、いい答えが出てくるはずもない。
まぁ、いいか。どうせ俺には関係のないこった。
一瞬マリーナが不安げに俺の方を見たが、俺はそれには構わなかった。
「あぁ。俺、煙草臭くないか?せんこーに会うんだから気を付けねぇと」
そう言うとマリーナは俺の周りをクンクンと嗅ぎはじめた。
俺がさせといてなんだけど、犬かおまえは。
そう思ったが、口には出さないでおいた。そんなことを口にした日にゃ何言われっかわからねぇ。
どんな覚悟をしてようと絶対そいつを超えてきそうだ。
「ん〜、軽く臭うわね」
マリーナは少し顔をしかめる。
「そっか?んじゃ……」
俺は制服のポケットからコロンを取り出すと、シュッと一吹きした。
「どうだ?これで大丈夫だろ?」
またマリーナはクンクン嗅ぎだす。
「そうね、煙草の匂いは消えたわ。でもその香水はあなたには似合わないわね。もっと大人の人がつける匂いよ、それは」
少し間を置いて、マリーナが勝ち誇ったような顔で答える。
「はんっ!ガキで悪かったな」
俺はそれだけ言って屋上から出て行き、階段を降りながらその香水の匂いを嗅いでみた。
大人がつける匂いってどんなんだよ……。
「あ、そうだトラップ。終わったら一緒に帰ろうよ!」
急に後ろからマリーナの声がする。奴は屋上の入り口から顔だけ出していた。
生憎、俺の腕は鼻の下で止まったままである。
げ、今の見られたか……?
そう思って振り向く。案の定そこには今にも笑いを吹き出しそうなマリーナの顔があった。
「ぷっ……、あっはっはっ!やだ、トラップ気にしちゃってるの!?やっぱりまだまだ子供ね、かわいい〜!」
かぁ〜っ、最悪なもん見られちまった!
俺は足早にそこを去りながら、自分の顔が真っ赤に染まるのを感じていた。
「それで、おまえはこの先どうするんだ?進学するにしても、この成績じゃきついぞ?」
担任のロドリゲスが険しい顔で聞いてくる。
「大学行こうなんて考えてないっす。まぁ、バイトでもしながら気ままに音楽活動に励もうかと。専門に行くかもしんないっすね」
俺は椅子に深く寄りかかりながら答えた。こいつと目を合わせるのは苦手だから、明後日の方を向きながら。
「そうか。まぁ確かに大学進学だけが進路ではないからな、それもいいだろう。だがな……」
「わかってますよ、そう簡単に音楽で食っていけるなんて考えてませんって。まぁ最悪の場合、家を継げばいいし」
大体言うことはみんな一緒だから、何を言いたいかはわかりきっている。
だから俺はロドリゲスの言葉をさえぎって続けた。
「そこまでわかっているなら何も言わん。だが、早めに進路は確定しておけ?
俺にはどうもまだおまえが先を決めあぐねているように見えるがな」
「そいつはどうも。ご忠告ありがたく受け取っときますよ」
それだけ言って俺は立ち上がる。
もう何も話すこたぁなさそうだし、もともと俺はこいつが苦手だからさっさとこの場を離れたかった。
「あ、それからな……」
んだよ、まだなんかあんのかよ……。
「その香水、おまえには似合わんぞ。もっと年をとってからにするんだな」
バンッ!
答えの代わりに、俺はその部屋のドアを思いっきり閉めて出ていった。
あんなことがあった後だし、マリーナと帰るってのは気が引けたから俺は裏門から帰ることにした。
まぁあいつは十分も待たずに諦めて帰んだろ。
「あら?ずいぶん早く終わったのね。もっと待たされるのかと思っちゃった」
不意に後ろから声をかけられた。もちろん声を聞くだけで誰かはわかるけど。
はは、うそだろ……。
「な、何でおまえがここにいんだよ!普通は正門で待ってるもんだろうが」
振り向くと、案の定マリーナの勝ち誇った顔がそこにあった。
「そりゃあ普通の人が相手ならそうしたけど。相手があなたで、しかもあんなことがあった後じゃねぇ」
とぼけたような笑みを浮かべ、俺の方へ近づいてくる。
げ、やな予感……。
「でも私の読みが当たったからいいものの、ちゃっかり約束を破ろうとしてくれたのには代わりはないし」
ほら見ろ、来るぞぉ。
「罰として帰りに買い物付き合ってもらうわね?」
はい、荷物持ち決定……。
それから服だの小物だのと色々買い物を重ねて、俺の両手は買い物袋でいっぱいになり、
ようやく帰るかって時にはすでに辺りは暗くなっていた。
「いや〜、ごめんね。何か荷物持ってもらっちゃって」
「ぬかせっ!最初からそのつもりだったくせによ」
大体なんでこんなに一気に買い込む必要があんだよ。
俺は声に出さずにぼやいた。こんなぼやきが聞かれちまったら今日一日の努力が水の泡になっちまう。
「それじゃご飯でも食べてから帰ろうよ、ね?」
あんなに長い時間買い物してたっつうのに、マリーナは全く疲れのない顔で笑った。
「あぁ?別にいいけどよ。でもあんまり遠くは勘弁だ、こっちは疲れてんだから」
「あら?体力ないのねぇ。煙草の吸い過ぎじゃない?」
こ、こいつは……。
「でも大丈夫、すぐそこだから。ほら、あそこのちょっとシャレた店……」
マリーナはそこで言葉を止めた。
ん?あぁあそこか。
俺はマリーナの視線を追う。
お?あれは……
「クレイにパステルじゃんか。あいつら何やってんだ?」
そう言った瞬間、マリーナは店とは逆方向へ走り出した。
「お、おい!ちょっ、どこ行くんだよ!?」
焦って声をかけたが、奴は止まりそうにない。
ったく、この荷物どうすんだよ。
結局俺もあいつの後を追うことにした。
「あぁ、もうなんだってんだ!」
そう、ぼやきながら。
あの後ようやくマリーナに追いついた俺は、大通りの外れにある小さな公園に来ていた。
「ほらよ」
春とはいえ、制服のままでは夜はちと寒い。
俺はそこにあった自販機で買った缶コーヒーをマリーナに渡した。
「ん、ありがと」
ベンチに座ったマリーナは、それを受け取ると少し微笑んだ。
俺は何も言えずにいたし、マリーナもうつむいたまま口を開かない。
訪れる沈黙。
「何で、パステルと……。よりによって、私と行った店で……」
マリーナは小さく呟いた。
「……まだ、クレイのこと好きだったんだな」
煙草に火をつけて、煙を吐きながら一息で俺は言った。
マリーナははっと顔を上げる。
「やっぱり、気付いてたんだ」
力なくそう微笑む。うっすらと瞳に浮かんだ涙には、気付かない振りをした。
「まぁ、な。おまえらとは、特におまえとは付き合い長ぇからな」
わかってたことだけど……。
「そんなにくよくよすんなって!大体あいつらが付き合ってるなんて、決まったわけじゃねぇだろ?
クレイの奴あの性格だからな、ただ単に今日の俺達みたいなもんかもしんねぇ。いや、きっとそうだ!」
俺は言葉とは裏腹に沈んでいく心を、吹き飛ばそうと軽く声を張り上げた。
マリーナは不思議そうに俺を見てる。
「ほら、見ろ!今日は満月だぜ?しかも雲一つないとくりゃ、これはもう行くっきゃないだろ!」
だぁ、何をわけわかんねぇこと口走ってんだ俺は!
「行くって、どこへ?」
マリーナはまた、軽く瞳を潤ませて問い返してくる。
こいつも少しは笑えよなぁ、ますます立場がなくなっちまうじゃねぇか。
「だから、クレイのとこにだよ!って言っても今すぐ行くわけじゃなくて、パステルより先に告白しちまえってことだぞ?」
俺はもはや勢いだけで、次々と言葉を口にした。
「でも、もしすでにパステルと付き合っていたら?」
だぁら笑えっつうの!あまりの焦りで俺のボケが冴えてねぇってのもわかるけどよ。
「そしたら告白してクレイの気持ちを揺らして奪い取る!」
これならどうだっ!?
「あはっ、どちらにしろ告白はしなきゃいけないみたいね」
やっと笑ったか……。って別に芸人でもないのに、何で俺はこんなに努力してんだ?
「当たり前だろっ!今日までずっと大切にしてきた想いを、どうして伝えないまま終わらせることができんだよ。
そう簡単に冷めるもんじゃねぇだろ?ならせめて相手に届けてやれよ」
ちっ、軽く心が痛みやがる。
でも、俺は少し強がってニヤッと笑って見せた。
「……そうね。たまにはトラップもいいこと言うじゃない?」
憎まれ口が出てくりゃ、もう大丈夫だな。
「あん?俺の口からはいいことしか出てこねぇけどな」
「あははっ、まぁ今日の所はそういうことにしといてあげるわ!今日はありがと、そろそろ帰んなきゃ」
マリーナはそう笑って立ち上がる。
そっか、俺はこの笑顔が……。
「それじゃ。本当に今日はごめんね、いつか埋め合わせはするよ!」
俺は手を振ってそれに応え、遠ざかっていくマリーナの姿を見つめていた。
積み重ねてきた想いの大きさなら、負けてねぇんだけどな……。
「さぁて、俺も帰って寝るかな」
一人暮らしの俺にとって、もちろんそんな簡単に眠りにつけるわけでもないが。取り合えず俺は伸びをして、空を仰いだ。
「満月、か」
あとは欠けていくだけの存在、ってか。
「トラップ、帰りに一杯やってかねぇ?」
スタジオでの練習が終わり、エンニオがいつもの通り声をかけてきた。
「一杯やるって、おめぇはどこの親父だ?」
俺も笑って答える。
こいつとバンドを組んだのが確か高一の夏だから、もうすぐ二年が経つのか。
ドラ ムのサキと、キーボードのドリ。そんでベースのエンニオに、俺がギター&ヴォーカ ル、と。
始めた頃に比べれば、俺達は格段にうまくなっていた。
それもそうか、二年も経ちゃあな。ロックミュージシャンに憧れて、煙草を吸い始 めたのも確かその頃だ。
ロック=不良っていう方程式がいつのまにか俺の中にあっ て、あの頃はこいつと一緒によく無茶したっけ。
今はずいぶん落ち着いたけど、クレ イ達には半ば呆れられてたっけな。
「おーい、トラップちゃん?」
エンニオに声をかけられ、あわてて視界が現実へと戻る。
「あん?わりぃ、ボーっとしてた」
エンニオは探りを入れるように俺の顔を覗く。
「そうそう、練習中もずっとそんな感じだったぜ?なんかあったん?」
マリーナ……。
不意に名前が脳裏をかすめたが、俺はそれを口には出さないでおいた。
「そうか?そんなこたぁねえよ」
ポーカーフェイスはお手の物。の、はずだった。
「……マリーナ、だろ?」
「な、なんでわかった!?」
あ……。
反射的に答えちまった。まぁこいつは確か俺の気持ちを知ってるはずだから、別にい いんだけど。
エンニオは不敵な笑いを浮かべる。
「やっぱりな。おまえがそうやって何かに悩んでる時は、たいていマリーナのことだ もんなぁ」
へっ、余計なお世話だ。
「よし!んじゃ今日は俺んちで一晩中語り明かすか!」
俺の肩に奴の手が回る。
そうだった。こうやって俺はこいつには何もかもを話しちまうんだった……。
エベリンみたいなでっかい街の高校ともなると、俺達みたいに遠くの町から来てる 奴ってのも珍しくない。
たいがいそういう奴は学生を優遇するアパートで一人暮らし をしているけど、エンニオもその例外じゃなかった。
俺達は帰りがけに酒とつまみを幾つか買って、スタジオから十分ほどの所にあるエ ンニオの家に来ていた。
「相変わらず汚ねぇよなぁ、少しは片づけろってんだ」
エンニオの部屋は楽譜やらレコードやらで、いつ来ても散漫としている。
「ばっか、おまえの部屋だって似たようなもんじゃねぇか。その辺適当に座って」
散らかっているものをひとまず部屋の隅に追いやって何とかスペースを作る。
「はは、違ぇねぇや」
俺も何とかスペースを確保して座る。よく考えりゃ、いつも自分の家でやってる行為 だった。
缶ビールのふたを開け、「お疲れ」と小さく乾杯をする。
「んで、なにがあったんだ?」
一口目を胃に流し込んだ後、エンニオが聞いてくる。
「ん?あぁ、そのことか。」
俺の視線は缶ビールに注がれていたが、視界はこの前の公園へと舞台を変えていた。
「……別に、何も変わってねぇって言やぁ、そうなんだけどな」
なんて話したらいいものか。
俺の口から一言目が発せられるのを、その言葉は嫌がっている。そんな戸惑いにはか まわず、俺は何とか言葉をつないだ。
「ま、簡単に言えばマリーナがクレイを好きだってことに確信を持っちまったってこ とかな。」
柄にもなく、これでも慎重に言葉を選んだつもりだ。
「……んで?おまえはどうすんだよ?」
エンニオは一言一言をかみ締めるように俺の言葉を聞く。そしてその問いはいつも簡 単で、でも核心に迫るものだった。
俺が真剣に話をしたい時、茶化すことなくこいつはそれに応えてくれる。俺がなん でも話しちまう理由は、そこにあった。
この高校に入ってから出来た唯一の親友。
昔からの親友が、恋のライバルなんてい うもんになっちまった今、こいつの存在はかけがいのないものになっていた。
「どうするも何も、告白をけしかけちまったんだぜ?どうしようもないさ」
煙草に火をつけて、俺は続けた。
「ふられる、とかそういうことよりも、あいつの悲しむ顔が何より辛かった。だから これでいいんだよ。
クレイならあいつを幸せにしてくれる、俺なんかよりもずっと大 切にしてやれるだろうさ。
今までずっと、いや今でもなお冷めない恋をさせてもらっ たんだ。それだけで充分幸せなんじゃねぇの?俺は。
あとはこいつが消えるのを待 つ、それだけさ」
吐いたばかりの煙を見つめながら、自嘲気味に笑う。
思いっきり自分に言い聞かせてんじゃねぇかよ……。
俺はエンニオの言葉を待った。
「……頑張れよ」
長い沈黙のあとで、奴はそう言った。
「俺は、頭でわかっててもそう簡単に消えてくんねぇからこそ叶わぬ恋は辛ぇんだっ て思うけどな。
そんなに長い間想い続けたんなら、そう簡単に冷めるもんじゃないっ てこともわかってんだろ?
そいつを騙しながら生きてくんだ、むしろ辛いのはこれか らだろ」
この言葉は胸に染みた。でも、だからこそ俺は気丈に答えた。
「どうってこたぁねぇさ、ポーカーフェイスは得意技だからよ」
俺がそう笑うと、あいつも同じように笑う。
それから話題は音楽へと移り、夜は更けていった。
軽い二日酔いにうなされながら、次の日俺が目覚めた時には、もう昼すらとうに過 ぎ辺りは暗くなり始めていた。
幸い今日は日曜だ。特にやることのなかった俺は、ひとっ風呂浴びると近くの店に 飲み物を買いに行った。
その帰り、家の前で何やら見なれた人影に俺は気付いた。
―――マリーナだ。
逃げ出したい衝動を必死で抑え、俺は平然と奴に近づいていく。
「あぁ、やっと帰ってきたぁ」
マリーナは俺の顔を確認すると、少しむっとした表情になった。
おいおい。やっとって、俺が家を空けたのは一瞬だろうが。
いつもなら無意識に口から出ている言葉が、今日は身をひく。
「どした?」
簡単にそう聞くことが精一杯だった。
「へっへー、なんでしょう?」
そんな俺の葛藤には全く気付かずに、マリーナは嬉しそうに笑う。
その顔を見ているだけで、次にどんな言葉が控えているのかぐらい容易に想像でき た。
「告白がうまくいったんだろ?」
努めて明るく答える。
「えぇーっ、何でわかるのぉ??」
マリーナは心底驚いたと言った顔だ。
そりゃわかるさ、いつもおまえを見てきたんだから。
「顔に書いてあんだよ、バーカ!」
心の沈みを悟られぬように、やはり明るさを途絶えさせるわけにはいかなかった。
「へへ、そう?そのことでね、お礼を言いにきただけ。トラップが背中を押してくれ たじゃない?本当に、ありがとね!」
そう言って笑うと、マリーナは帰っていった。
悔しいぐらい、あいつの笑顔は輝いていた。
部屋に戻り、買った物を冷蔵庫に入れ終え、壁によりかかって座る。
あいつの笑顔を絶やさぬように……
できれば俺の手でそうしたかった。でも俺にはそうはできないってこともわかって たことだ。
だからむしろこうなることを望んでたのかもしれねぇ。今、あいつは幸せ をつかんだんだ、祝福してやんなきゃ。
そうだろ?全部わかってたことじゃねぇか…
…。
そう自分に言い聞かせる。
でも……、それでも……
「ちくしょう……、なんで涙が……出てきやがる……」
必死に手で涙を抑える。
新月の、晩のことだった。
開けっ放しの窓から吹いてくる、まだ少し冷たい風に起こされて俺は目を覚ました。
いつのまにか寝てたのか……。
窓の外を覗くと、まだ暗い。時計は午前零時から半周回ったところを指していた。
こんな時間に起こされても何もすることがねぇな。
そう思って煙草に手を伸ばす。
ちっ、きれてやがる。
空のケースをくしゃくしゃに握り潰す。薄手のコートを引っかけ、まずは煙草を買いに行くことにした。
バタンッ
夜中だっつうのにドアが勢いよく閉まる。二階にある俺の部屋の前では、思いのほか風が強かったらしい。
俺はコートの中で身を小さくしながら、階段を一段一段降りていった。
「よお」
不意に声をかけられ前を向くと、そこには見慣れた顔が。
―――クレイだ。
「よお、誰かと思えば親友じゃねぇか」
心のどっかでクレイが来るような気がしてたから別に驚くこともなかったが、
マリーナのこともあったからどこか返事がぎこちなかったかもしれねぇ。
「深夜に突然の来訪、っていっても相手がおまえじゃあんまり嬉しくねぇな」
ぎこちなさを隠すように俺は続けた。
クレイが笑う。
もしこいつが、俺がマリーナを好きだったことを、今でも好きだってことを知ったらどんな顔をするだろう?
それでもなお、親友と俺は呼べるんだろうか。
「まぁ、いいや。取り合えず煙草買いに行くの付き合えよ?」
心の葛藤を拭い去るように、俺はクレイの前を歩いた。
俺の吐いた煙が白く立ち昇る。
別にそれがうまかったわけでも、何があったわけでもないはずなのに、俺の心はどこか満足感に満たされ始めていた。
俺の家から少し行った所にある公園で、俺はただクレイの言葉を待っていた。
きっとマリーナのことだろう。
こいつがこんな時間に俺を訪れた理由はそれ以外に見当たらなかった。
それでもあいつは何も言わずに、ただ沈黙だけが夜空と同化していた。
こいつは俺の気持ちを知っているんだろう。俺がマリーナの気持ちを知っていたように。
特に長い付き合いだ、何でも話し合える仲だった、いくら鈍いこいつでも気付いていたって不思議じゃない。
「ごめんな、トラップ……」
やっぱり気付いてたんだな、クレイは……
「マリーナを傷つけんなよ?喧嘩しようが何があろうが、あの笑顔を曇らせんな……」
俺はこいつを許したかっただけなのかもしれない。
マリーナと付き合うことを受け入れたかっただけなのかもしれない。
心がすさんで、こいつを恨むことになる前に。
例え別れをせがんでも、絶対に受け入れることはないだろう。
それでいい、クレイにならマリーナを任せられる。
俺はこいつの口から、その想いに自信を与えてもらうのを待っていただけだったんだ。
「幸せにしてやれ、それだけだ」
この満足感の理由を知って、俺の口から自然に言葉がこぼれた。
もうこれ以上言葉は必要はない。
何も言えずにいるクレイをよそに俺はその場を去った。
帰り道に新月を探して、俺は、あいつが親友だったことに、親友があいつだったことに、幸せを感じていた。
つづく
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