───私の夢はね、好きな人に『好き』って言うこと。
そう言って、君は笑っていた。
1
陰陽師。
方術を操り、人の心のために動く者たち。
でも、彼らは孤独。
いつの帝の御世の頃か。
都外れの小さな邸宅。荒れ放題の庭。人が住む気配すら覆い隠す、屋敷。
その中に、一人の来客があった。水干を着て、供も連れずに一人で歩いて来てはいるが、 その物腰から位の高い人物だと推測できる人間。背の高い、かなりの美丈夫だった。
「おい」勝手知ったる何とやら、入り口前で声をかける。
「クレイ、いるのか?おい」
しかし、答える声はなし。人の気配すら感じられない。
「…全くしょうがない奴だな。上がらせてもらうぞ」
溜息混じりに、男は沓を取り、中に入っていった。
「やっぱりいたな」
「…ギアじゃないか、何か用か?」
脇息にもたれかかって庭を眺めていた男が、声をかけてきた来訪者に尋ねた。
こちらは白の狩衣姿。気温、湿度とも高く不快な気候のはずなのに、この男の周りには 涼やかな空気が漂っているかのような印象を受ける。こちらも相当の美形。
「いるんなら、来客ぐらい出迎えろよ、クレイ」
来訪者の口調が説教めいたものであったことに、クレイと呼ばれた家の主は苦笑した。
「すまない。ちょっと考え事をしていて気づかなかったんだ」
素直に頭を下げる。
「ま、いくら言ってもお前のそういうところは改まることはないんだろうな」
謝られた男も苦笑交じりに答えると、クレイの隣に腰を下ろして胡坐をかいた。
そのまま、ふたりでただ庭を眺める。
「ところで、ものは相談なんだがな、クレイ」
唐突にギアと呼ばれた客人が切り出した。
「うん」クレイは庭から視線を外さないままに答える。
「宮中で、鬼が出るという噂が広まっているんだ。何とかならないか?」
ギアはやや声を潜めつつ、クレイに話し始めた。
このところ、宮中で女の姿をした鬼を見かけたとの噂が広まっていた。夜中に金の髪を した女の鬼が、ふわり、ふわりと宮中の至る所で音も立てずに歩いているという噂で、目 撃した者についても、下仕えの女もいれば時の女御にお仕えする女官もおり、皆が共謀し て嘘をついているとも思えない。
「…だから俺が密かに使いを仰せ付かったんだよ」
「ふぅん…」
話を聞いたクレイは一寸考え込んだ。そしてギアに顔を向けた。
「わかった、では今夜にでも参内するか?」
「頼む。俺も共に参る」ギアは望んだとおりの答えを得られて、心底ほっとしたような表 情になった。
2
宿直の者たちを除き、皆が寝んでいる時刻。クレイとギアは、足音を消して宮中を歩い ていた。
ふたりともかなりの美形であるため、昼間に並んで歩こうものなら大抵の女性は御簾近 くに寄り、その姿を一目見ようと集まるのだろうが、さすがにこの時間はそんな酔狂な輩 もいない。宮中で鬼の噂が広まってからは、夜に忍び逢う男女も減っているらしく、ます ます静寂が広がっていた。
「なあ、クレイ。どんな鬼なんだろうな?」
ギアがそっと、隣を歩くクレイに話しかけた。
「さあな。ともかく何かがいる可能性は高いだろうから…まずは見てみないと何ともいえ ない」淡々と答えるクレイ。不意に、その歩みが止まった。
「どうした?クレ…」
「───しっ」
ギアの声を制して、すうっと瞳を細める。
「ギア、行こう」
言うが早いか、足音も立てずに走り始めた。ギアも心得たもので、クレイ同様に走り始 めた。走るふたりの耳に、少しずつ女の声が届いてきた。
(…これは、歌か?)ギアは心の中で思った。
柔らかな響きを持つその声が、だんだんと近づいて来る。そして、クレイの足が突然止 まった。ギアも慌てて立ち止まる。
ふたりの目の前に現れたのは…輝く髪を持つ女性だった。
女性は、庭の木々をただぼんやりと眺めつつ、何かを口ずさんでいた。
憂いを秘めた瞳は、榛色。女房装束は夏だというのに氷襲、その衣の白さよりもなお肌 は白く、頬と唇だけがほんのりと紅い。日の光のように輝く髪が、緩やかに背中を波打っ ていた。
ギアは驚きのあまり、声も出せない。人の髪といえば黒が普通で、金の髪など見たこと もなかった。だがあまりに美しい、初めて目にするそれにすっかり心を奪われていた。
しかし、クレイは躊躇することなく、その女性に歩み寄って行った。
「君は誰?」そっと声をかける。
はっとして、その女性は歌を中断してクレイに視線をやった。クレイの瞳が驚きのため に、大きく見開かれる。
女性が持つ榛色の瞳は、暖かな光を宿していて。邪気は感じられなかった。
クレイは無意識に手を伸ばし、女性の髪に触れようとした。
しかし。
その女性はすうっと音もなく立ち上がり、クレイの手をするりとかわしてふわふわ何処 かへ歩いて行った。廊下を遠ざかり、壁の向こうへ身体がすうっと消えていく。
「待って!」クレイは後を追う。金縛りにあっていたように動けないでいたギアも、はっ とすると慌ててクレイについていった。
だが、すでに女性の姿はどこにもなかった。
「…クレイ、あれは…何だ?鬼、か?」
ギアがうつろな視線のまま尋ねた。クレイは黙って首を横に振るだけだった。
3
次の日の午後、クレイの邸。
ギアがまた訪れていた。
「なあ、クレイ。あれは一体何なんだ?教えてくれ」
ギアが口を開く。クレイは答えず、庭を眺めてただ押し黙っている。
「おい、クレイ。俺の話を聞いているのか?」
なおも問うギアに、クレイは面倒臭いといった風情で答える。
「聞いている」
「ならば答えてくれ。あれは…何だ。魔物か?」
ギアは思わず詰め寄った。クレイは鬱陶しそうに眉をしかめる。
「違うな。あれは、邪な気配が感じられなかった」
「ならば…何者だ?」
重ねて問うギアに、クレイはただ、黙って首を振った。
「今こいつに聞いても答えは出ねえよ。だってこいつ、その女とやらにすっかり心を奪わ れちまってんだからな」
不意に、ふたりの間に割って入る声。驚いたギアは、声の方向に振り返り。
「…おお、トラップか。どおりで人の気配がしなかったわけだ」
ふうっと安堵の溜息を漏らす。
「悪かったな、どうせ人じゃねえからよ」
トラップ、と呼ばれた男は、仏頂面になりつつも、ふたりの前にそれぞれ杯を置いた。
水干姿─クレイと同じ白─に身を包む、かなり細身の美青年、といってよいだろう。
ただし。
彼の髪は、燃えるような緋色。どう見ても、人の持つそれとは思えない。
「こいつ、戻ってきてからずっとこの調子なんだぜ? すっかりその金の髪の女だかに、 いかれちまったみてーでな」
クレイを指差して、からかうような口調。表情は明らかに、にやついている。
「そうか。まあ、確かに…美しかったのは認めよう。しかし、あれは人ではないのだろう? …あ、いや。すまんなトラップ」
ギアは慌てて、トラップに頭を下げた。
「別に構わねぇよ、ほんとのことだしな。それよりも、次は俺も一緒に行くことになった からな、ギア」
トラップは飄々と言い放った。ギアは「え?」と呆けた表情になる。
「俺がついてってやったほうが、正体もわかるってもんだろ? 何たって俺は、こいつの 式なんだからよ」
トラップは、自信ありげに言ってのけた。
「それよりも、おめぇら一杯も飲まねぇのか? せっかくさっき、髪まで染めて市で買っ てきた上物なんだが」
そう言って、持っていた酒を掲げる。
「お、すまん。さっそくいただくか。クレイは…ま、いいか。トラップ、お前が付き合っ てくれよ」
「もとからそのつもりだよ」
まだ庭をじっと睨み付けているクレイを尻目に、ギアとトラップは酒を酌み交わし始め た。クレイの前にある杯には、ちゃんと酒を注いでから。
しかし、クレイは動かなかった。
杯の中身も、そのままにされていた。
4
夜まで酒を楽しんだふたりと、憂い顔のままのクレイは、その状態で参内した。
ただし、トラップは髪を黒く変えている。人として、振る舞うために。
以前よりもひっそりと、静まり返った宮中。宿直の者意外は、起きている気配がない。
皆、怪異に息を潜めて耐えているようだった。
ただし、実際は。何の被害も出ないままだったため、帝におかれても表立った悪霊祓い などもできず、どうしようもなく手をこまねいている状況なのだが。
「…近いぞ」
不意にトラップが、すうっと目を細くした。
クレイは無言で頷き、ギアは無意識に刀の柄に手をかける。
「おい、ギア。おめぇ、帝の許しもなく刀抜いたりすんなよ。いくらおめぇでもただじゃ すまねぇぜ」
「…わかっている」
押し殺した声にも、緊張が見て取れた。
そのとき、また、女の歌声。
「あっちだな」
短く一言発するや否や、トラップは音もなく走り出した。
…いや、正確には。走ってはいなかった。廊下の少し上に浮いていたのだ。
「トラップ、ちゃんと地に足をつけろ、他者の目に触れたら面倒になる」
クレイは低い声で注意してから、こちらはちゃんと足音を消して走っていた。
ギアも必死で着いて行った。
前に見たときとおなじ、氷の襲。金の髪。榛色の瞳。
儚げな印象の女性が、座っていた。
「…おめぇ、誰だ?」
トラップが、臆することなく声をかける。ゆっくりと、女性は振り返る。一瞬眉をひそ めると、やがて静かな声がした。
「あなたこそ、誰? 人ではないようね。式?」
その女性は、トラップの正体をすぐに言い当てた。トラップの表情が驚きに変わる。
「おめぇも、人じゃないだろう? …樹か?」
トラップがすうっと目を細めつつ、話しかけると。女性は無言で頷いた。
「おめぇ、今の時期に現れる奴じゃねぇだろ。春…櫻、か?」
「…ええ」
「なら普通は、櫻襲のはずだろ。何で今時期の氷なんて着てやがんだ」
「……」
トラップの問いかけに、彼女は無言で押し黙る。
「誰かが、君を呼んだの?」
クレイが、静かに口を開いた。トラップも女性も、はっとしてクレイを見つめる。
「君は本当は、こんな時期に目覚める必要などなかったよね。なぜ今、目覚めさせられた の? 教えてもらえないか」
クレイは静かに、彼女に近づいて。そっと手を伸ばし、彼女の頬に触れてみた。
思いがけず、温かい。
「…!」
女性は、彼の行動が信じられず。ギアは、彼の行動が理解できず。ともに、息を呑む。
「クレイ、こいつ三流術師に無理矢理目覚めさせられたみてぇだぜ」
トラップがぼそり、と言って。女性は驚きの表情で、トラップを見つめた。
「そう、みたいだな…。辛いだろう、こんな風に無理に起こされてしまって…」
クレイは、労わりの眼差しを女性に向ける。その白い頬を、そっと撫でる。
「あまり荒っぽい手口を使いたくはなかったんだけど、こうでもしないと君が春まで眠り につけないからね? 今、祓うよ。…トラップ、来い」
女性から離れると、クレイが低い声で、トラップに呼びかけた。
5
「ああ」
トラップが短く答えると、彼の体は次第に変化を始めた。
黒くしていた髪が本来の緋色に戻り、やがて全身が緋色の布に包まれて。
すうう…と布が小さく縮まっていく。
やがて、そこには。
緋色の柄の、一振りの剣。
その剣は、ふわりと舞い上がると。クレイの手元に、すとんと落ちた。
「…行くぞ」
クレイは静かに、真言を唱え始める。
女性も、ギアも。ただ静かに、彼を見つめていた。
「………。去れ!」
クレイの気合いとともに、トラップの変化した刀が、自ら鋭い輝きを放った。
「…きゃ!」
思わず女性は、両袖で目を覆う。
その彼女の体にも、変化が訪れた。
氷の襲が、色づいて。鮮やかな、櫻の襲に変わっていった。
「これでいい」
クレイはにこり、と微笑んで、剣から手を離す。
すると剣は、再び緋色の布に包まれて…。やがてトラップの姿に戻った。
「良かったな、おめぇ」
こちらも、嘘も皮肉も欠片もないいい笑顔で、彼女に声をかけてやる。
「さあ、元にお戻りなさい。もう、眠っていいから」
クレイはそう言って、彼女にまた微笑を見せた。
「ありがとうございました」
花がほころぶように、ふわり。彼女が笑う。まだ遠い、春の訪れを感じさせる笑顔。
「これで、眠れます」
すがしい表情で、彼女は笑う。
「誰なんだ? 君をこのような目に遭わせたのは」
すっかり平常心を取り戻したギアが、ふと話しかけると。彼女は静かに首を振り。
「それは、お答えできません。でも、誤解なさらないでくださいませ」
彼女は凛とした声で答えた。
「え?」
ギアが聞き返すと。
「あの方は、宮中を騒がせるためにこんなことをしたのではないのです。ただ、もう一度、 私が咲くのを見たかった…と、仰っていただけです。…その望みも、叶いませんでしたが」
静かにそう言って、目を伏せる。
その言葉に、クレイが思い当たった。
「…なるほど、つい3日ほど前に亡くなられた…」
「その先はどうぞ、仰らないで下さいませ!」
強い調子で、彼女はクレイの言葉を制した。
「あの方は、こう仰っておられたのです。『もう一度、櫻を見たかった。もう一度、愛しい あの方が愛でていらした貴女という櫻を見たかった』と…」
「あの方? …っ、もしや」
ギアは思わず口にしようとして、はっと口をつぐんだ。
「…いや、これは言わぬほうがよろしいのですな」
「ありがとうございます」
女性は、ギアに静かに頭を下げると、ふわり、と浮き上がった。
「私もそろそろ眠らせていただきます。もう、疲れてしまいました…」
空気に溶け込むように、儚げに、彼女は笑う。
「…待って! もしや君も」
クレイが、この男とは思えないほどの声を上げて。手を伸ばして、彼女の手を掴もうと するが。その手は、虚しく空を切る。
「私は、幸せでございます。私を愛でてくださった、愛しいお方にこうしてお会いできま したもの…。だから、何も未練はございません」
鈴を振るような声がして、彼女はふわりと空に消えた。
───私の夢はね、好きな人に『好き』だと伝えることでした。
それは、私とあの方を結ぶ、同じ願い。
だから、悔いなどございません。このまま、参ります。
クレイ、トラップ、ギアだけの耳に。
彼女の最期の言葉だけが、風に乗って流れてきた。
6
あれは、俺が愛でていた山櫻。
宮中で、皆が一斉に咲き誇り、競うなかに、ひっそりと佇んでいた、山櫻。
その控えめな、しかし人を離さない美が、俺は何より好きだった───
都外れの小さな邸宅。
今日もいつもと変わらず、荒れ果てたとしか形容できない屋敷に、珍しく正装のギア。
宮中からの帰りと見えて、仰々しいほどの煌びやかさだが、彼の場合はなぜかしっくりと 似合っていた。牛車から降りた彼は、供たちを先に帰すとずかずか歩いて門を潜った。
「クレイ、入るぞ」
いつもと同じく声をかけ、勝手知ったる家へと上がりこむ。
クレイはまた、庭を眺めていた。その表情には、憂いが見える。
「クレイ、お前に伝えたいことがあってやって来た」
「…なんだ」
ギアの声にも、クレイはいかにも面倒だといった様子だ。ギアは溜息をひとつついて、 それからおもむろに切り出した。
「宮中で、一本の山桜が枯れた」
「!」
ギアの声に、クレイは一瞬でその表情を変え、彼に向き直る。
「…帝も愛でておられた、清涼殿でも最も美しいと称えられていた樹でな。帝も大層、お 嘆きでいらっしゃって…」
ギアはクレイの表情を、同情の瞳で眺めつつ、言葉を続ける。
「ついては、あの樹の前で、舞を一指し舞いたいと仰せなのだ。…お前の琵琶でな」
「…なぜ、俺の?」
クレイの問いに、ギアは静かに答える。
「俺があの樹の精について話したところ、帝は大層感じ入っておられたらしく、涙をこぼ されていたのだ。…是非とも、あの樹のために舞ってやりたいと仰せでな。ついては、琵 琶の名手であるお前の力を借りたいと仰せなのだ」
「…笛は? 誰が、笛を吹く」
クレイが尋ねると、ギアは微笑んで。
「勿論、俺だよ」
「…そうか。ならば参ろう。いつだ」
「今宵だ。すぐ準備して出られるな? あとで牛車を寄越すよう言っておいた」
彼の返事に、ギアは安堵の表情を見せた。
もう冬も近い、宮中で。
この時期に、外で舞うなど通常は考えられないことだったが。
帝が『是非に』と言えば、それに抗う者などいるはずもなく。皆、静かに控えていた。
不思議なことに、この日は、季節外れの暖かさ。小春日和といったところだった。
ギアとクレイが、演奏するなか。鮮やかな櫻襲の狩衣を纏った帝が、ひとり静かに舞う。
冬だというのに、風も止み。春の如き、空間が生まれる。
…やがて。
ちらり、ちらり。何かが舞い降りてきた。
すわ雪か、と一同は動揺したが。その正体を知り、更に動揺して。ついには涙を流した。
「…ギア」
クレイの声に、ギアが演奏する手は休めずとも、頷く。
舞い降りるは、櫻の花弁。淡い色の、山桜。
舞う帝に、奏でるふたりに併せるように。ちらり、ちらり。ふわり、ふわり。
やがて、舞が終わったとき。
長く舞っていた、花弁は。ひとつ残らず、消え去っていた。
このことは、以後。長く宮中で、語り継がれたという。
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